聖なる日の祈り
曲について
スクフェスコラボシングル第1弾・ジングルベルがとまらないのカップリング曲です。正直に言うとこの曲を今までそんなに聴いていなくて、歌詞を考えたことどころか真面目に文としてインプットしたことがないレベルでした。改めて歌詞を見ると深すぎて全然よくわからないですね。正確にいうと、表面的には理解したような気持ちにはなれるけど、高尚すぎて自分の気持ちがそこまで至れていないというか、自分の中に今まであった気持ちとマッチさせて取り込めないというか。
表面的な解釈としては、みんなで集まってパーティーしちゃうジングルベルがとまらないとは対比的に、1人で静かに雪降る夜に過ごすクリスマス、みたいなイメージで、1人で過ごして寂しさも感じるけど、聖夜という空気がそんな静寂の中からふと慈愛に満ちた感覚をじんわりと呼び起こしてくれて、聖母のようにみんなの幸せを願う暖かい気持ちに溢れてくる、みたいな感じかなと思います。
特に印象的なのは、「すれ違ったって だからいいのさ」「わかり合えなくて だからいいのさ」というサビ前の歌詞で、Aqoursの歌詞としてはかなり珍しいものだと思います。例えば「つながり」はよくAqoursの歌詞で出てくるワードですが、畑亜貴さんの中で「つながる」=「わかりあう」ではないのかな、とか考えると、まあ確かにそうだなあ、という気持ちにもなるし、他の曲でそういった似たニュアンスの単語がどう意識的に使い分けられているのか、とか再確認したくなります (やってませんが……)
かなり話が逸れるんですが、最近南條愛乃さんのソロワーク5周年記念ブックを読んでいたんですが、そこに南條愛乃×畑亜貴の座談会の記事がありました。その中で畑亜貴さんが南條愛乃さんに歌詞を提供した"ヒトビトヒトル"という、1人で過ごす時間がテーマになった曲の話が出てくるのですが、そこで畑亜貴さんが「わたしは、孤独感に関してはすごく肯定的ですね」「大人になると他人の存在で自分の寂しさは埋まらないことに気がつくんですよね」といった発言をしていたのがすごく印象に残っています。1番での「ひとりぼっち寂しくなって」からの2番での「ひとりぼっちじゃなかったみたい」は、物理的にひとりであることと精神的にひとりであることの違いが描かれていると僕は解釈しているんですが、ひとりの寂しさが埋まる瞬間のひとつがこの曲に現れているみんなへの慈愛に満ちた気持ちの状態だったり、「みんな自分を頑張ってい」れば他人の存在で自分が満たされなくてもいいと言っているようにも聞こえて、畑亜貴的孤独観が聖夜の空気に包まれてAqoursらしいポジティブな感情・言葉に落とし込まれている曲なのかな、と勝手に思っています。
4thライブに向けて
ジングルベルと同じで、やってもおかしくなさそう & やるならここでやっておかないとあと1年やらなさそう、みたいな感じがします。やっぱりやるならジングルベルとセットかなあという気持ちもあるんですが、結構Aqoursのしんみり系のいろんな曲とも相性がよさそうな感じがするので、そういう風に崩してくるのもアリかなと思います。
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