飴色

飴色は2023年11月22日に発売された「Take It Over」のカップリング曲、DOLLCHESTRAの秋の曲です。
歌詞に現れる "色の褪せた帰り道"、"木枯らし"、"少し冷えた手のひら"、"落ち葉舞い降る" などの描写からも秋の雰囲気が感じ取れますし、同時にリリースされたスリーズブーケの「シュガーメルト」も歌詞に "小春日和"、"秋の空"、"移り気な季節" が入るなど同様に秋曲になっていて、夏に「夏めきペイン」、ハロウィンに「Trick & Cute」を披露した蓮ノ空らしい、その時々の季節に合わせた楽曲になっています。
(慈は全体曲では季節に合わせた曲を作ってるのに、みらくらぱーく!では季節をあまり感じることがない、ある意味普遍的な曲を作っているのも面白いですね、という余談)

楽曲に蓮ノ空の物語を絡めた解釈もしていこうと思うのですが、その前にまず蓮ノ空とは完全に独立に、この曲単体で見たときに読み取れる情景について考えてみたいと思います。
僕はこの曲を「旅立ってしまう "君" を止められない "僕" の歌」と解釈しています。

楽曲の情景


まず1番は "何も話さなくたって全部分かるわけないよね" から "伝えたい想いを背負って駆け出した" に繋がることから、伝えられていない想いを伝える決意を固め、伝えたい相手である "君" の元へと走り出す様子が想像できます。
"もうすぐきっと話せるんだ" も、相手の元に辿り着くことで会話できるという意味と、今まで伝えられなかった想いをついに伝えられるんだという意味の、両方が込められているように感じます。
そう考えると1番サビまでの歌詞は、1人でいるときに "君" に想いを馳せながら自分の想いを再確認しているような感じでしょうか。
しかし、走り出しながらもサビ最後の "でも困らせてしまうかな" で少し迷いが生じます。1番と2番を繋ぐ間奏で激しさを増すギター、そこからの歪んだピアノも、駆け出すほどの心と体の勢い、そこからの迷いという気持ちのノイズのようにも感じます。

その後2番では、"隣に居たいよ 今日は" という想いを抱えながら "君" へと走り、見つけたところで "君の名前を呼ぶ" ことで対面します。
サビ終わりの "この時間が続けば良い" というのは、声を掛けて合流したことで2人になったこの時間のことだろうと思っています。
しかし "飾らない願いは結局隠した" とあるように、伝えるために駆け出した想いは迷いに打ち勝つことはできず、打ち明けられないままで終わってしまったことがわかります。
その後、落ちサビで "最後にぎゅっと手を握って" とあることからも、2人が物理的に一緒にいる様子が浮かびます。

さらに歌詞は "「また明日」精一杯だった" と続きます。
ここで、もっと一緒にいたいという想いを振り切り、別れの挨拶をしたことになります。
その後、1番と同様に "揺らがない想いを背負って駆け出した" と駆け出していますが、これは別れの後なので、相手に向かっていった1番とは逆に、相手から離れる方向に走っていると推測できます。
最後の "木枯らしが撫でる" "伝えそびれた想いを運んでくれたら良いのに" とあるように、想いを木枯らしに運んでもらうほど、"君" と物理的な距離がある状況が想像されます。
1番の始まりも最後も "色の褪せた帰り道" だったことから、もしかすると実は1番で描かれる時間の前にも2人でいて、1度別れた後に帰路についていた "僕" が「やっぱり今日伝えないといけない」という衝動に駆られて意を決して踵を返したが、結局伝えられず元の帰路に戻った、ということなのかもしれません。

この、「想いを伝えたくて君に会いに行ったが、結局伝えられないまま解散してしまった」という情景をベースに、今度は "僕" の心情や "君" との関係について、一旦飛ばしてきた歌詞も拾いながら改めて振り返ってみましょう。

楽曲の心情


まず "何も話さなくたって全部分かるはずないよね" や "伝えたい想いを背負って駆け出した" ことから、"僕" は "君" に対して、相手に伝わっていない想いがあると考えていることがわかります。
その "伝えたい想い" は、そこに至るまでのAメロBメロの歌詞にある、"君との時間" が "数えきれないほどの希望" であり、"君と出会ったことで僕の今が在る" ということでしょう。
一方で、"でも困らせてしまうかな" "君が歩く並木道 風景に僕も混ざれば 綺麗じゃなくなるけれど" のように自分に自信を持ちきれない表現があり、自分は相手にこの想いを伝えるに相応しい人間じゃないというようなネガティブな感情を抱いているように察せられます。
それでも "隣に居たいよ" という想い、その後の "涙も喜びも悩みも分かち合えたら幸せだと思うから" という言葉には、対等に支え合いながら2人で並び立ちたいという気持ちが感じられ、それが "飾らない願い" であると読み解けます。
"並んで歩く道は未来" という歌詞にも、そんな関係が理想であるという気持ちが込められているように思います。
落ちサビの "届かない想いは自分のせいだ 分かっていても踏み出せない" から、自分に踏み出す勇気がないから想いが伝わらないままなのだという認識が "僕" の中にあることが読み取れます。
そして、踏み出せないまま "「また明日」精一杯だった" と想いを伝えられないまま別れます。
"この先もっと返したいんだ 言葉では足りないけどさ" で、言葉で伝えられなくても、他の方法でも温かな希望、僕の今をくれた "君" への感謝を返していくことが "揺らがない想い" になったことが窺えます。

ここまで見ると、"君" に想いを告げたいが、自分が相手に相応しいと思えず告白する勇気が持てない "僕" が描かれた切なく歯がゆいラブソング、という解釈もできるでしょう。
それも決して間違いではないと思いますが、ここでは歌詞の中で描かれる時間に注目してもう少し掘り下げてみたいと思います。

楽曲の時間的表現


まず注目するのは "隣に居たいよ 今日は" の部分です。
なぜ "今日は" なのでしょうか?
もちろん今日は決意を固めたので特別感情が高まっている、というのもあるかもしれませんが、そもそもその決意を固めた理由も含めて、明日ではダメで今日でなくてはならない事情があったからかもしれません。
例えば、"君" もしくは "僕" が引っ越しをするなど、遠く離れてしまうとか。

そう仮定してもう一度時間に関係する歌詞を見直してみると、"明日も そのあとも 言えずに終わるんだろう" は今日言えなければずっと言えないことの強調のように捉えられますし、"「また明日」精一杯だった" の「また明日」がどうして精一杯だったのかの意味合いが変わり、叶わない願望のような響きになります。
"並んで歩く道は未来" も、すぐには叶いそうにないがいつかはきっと、という切なさを帯びてきます。
さらに、アウトロの "色の褪せた帰り道" も、"君" がいなくなる喪失感とも感じられるようになり、木枯らしに想いを運んで欲しいという遠い距離感とも一致します。
特にこのアウトロでは小鳥のさえずりのような音も入っていて、"君" がいなくなって静かになったので自然の音が聞こえるようになったという捉え方もできますし、新しい朝の陽の光を浴びてるような感覚もあって、もし日を跨いでいるとすると、すでに "君" がいなくなった後日の情景とも考えることができます。
そうすると一層、木枯らしに想いを運んで欲しい気持ちの切実さが増して感じられます。

この解釈をベースにすると、"僕" は別れの後も "色の褪せた帰り道" をまだ歩いているので、離れてしまったのは "君" の方だとするのが自然でしょう。
こう考えると、なぜ "僕" が想いを "今日" 伝えるために走ったのか、なぜ "今日は" 隣に居たかったのか、なぜ "並んで歩く道は未来" なのか、なぜ 「また明日」が精一杯だったのか、重みが変わってきます。なぜこの日に "手のひらに君との時間を乗せ" たのかにも、理由があるように感じられます。

また、想いを伝えることを躊躇った "困らせてしまうかな" という迷いも、明日にはもう離れることが決まっているのに「隣に居たい」と伝えても相手を困らせてしまうと考えると、より理解できるものになります。
"ずっとこの時間が続けば良い" も、明日の別れが来ないままずっと隣に居られたらいいのに、という解釈に変わってきます。

実際のライブにおけるパフォーマンスでも、1番では2人は最初離れた位置からスタートし、2番ではステージ中央で合流し、ラスサビでは綴理をメインステージに残したまま、さやかだけが花道を歩きセンターステージに向かい、別れます。
このステージングもまた、僕がこの曲にこの解釈を抱いている理由の1つです。
これが、冒頭で僕がこの曲を「旅立ってしまう "君" を止められない "僕" の歌」と解釈している、と表現した理由です。

蓮ノ空の物語との紐付け


曲そのものについての僕自身の解釈が整ってきたので、蓮ノ空の物語と絡めた話に入っていきたいと思います。(間違っていたり見落としていたりしたらそっと教えてください。)
まず、この曲が秋の曲だということについて、秋とは蓮ノ空にとってどういう季節だったかというと、竜胆祭やラブライブ!の地区予選、オープンキャンパスなどがあった季節です。
102期では竜胆祭で慈が怪我をしたり、沙知が生徒会長となりクラブを去ったり、残った梢と綴理がうまくいかなくなったり、という時期だったはずです。
103期では、竜胆祭に向けてさやかが沙知からの試練と向き合い、竜胆祭でRunwayをソロで披露したり、その様子に置いていかれる危機感を感じた綴理が奮闘し、オープンキャンパスを経て沙知と和解したり、という時期でした。
この中でまず、実際にクラブを去ってしまった沙知と残された綴理の関係をベースに、もう一度楽曲を振り返ってみましょう。

そもそも曲名の「飴色」について、ここまで何も触れてきませんでした。
飴色というと、飴色玉ねぎなどでも用いられるように、茶色に近い色を指すことが多いでしょう。
メンバーカラーで言うと、綴理はボクの赤、沙知は髪の色や「抱きしめる花びら」での衣装やペンライト演出でもあったように、緑が連想されます。
歌詞の "風景に僕も混ざれば綺麗じゃなくなるけど" にあるように、赤と緑を混ぜると茶色になります。
茶色は暗く、あまり綺麗な色ではないと考える人もいると思いますし、歌詞にある "落ち葉" にも茶色のイメージがあります。
また、秋の葉の色の変化で言えば、夏の新緑の葉から緑色が抜け落ちることで紅葉の赤になる、と考えると、沙知がクラブから抜けた後の綴理のようにも感じられます。

この観点から歌詞を振り返ってみると、生徒会長になるためクラブを去らなければならない沙知に対し、クラブを辞めずスクールアイドルを続けて欲しいという綴理が、その想いを結局伝えられず引き止められないまま沙知がクラブを去ってしまった、という情景が、102期のエピソードになぞらえて解釈できるようになります。
その上で歌詞と物語を紐づけていくと、"何も話さなくたって全部分かるはずないよね" は活動記録13話で綴理がライブの交渉のために生徒会室に行ったときのエピソードを思い出しますし、"君と出会ったことで僕の今が在ると" は18話や抱きしめる花びらの歌詞でも触れられています。
"言葉では足りないけどさ" も 「抱きしめる花びら」の "言い足りないけど" を思い起こします。
"君の名前を呼ぶ" も、和解するまでは生徒会長呼びだった綴理が、和解後「さち」と呼ぶようになったことからも、当時は名前で呼んでいたことが強調される表現に思えてきます。
"「また明日」" も13話のオープンキャンパス後の沙知と綴理の会話に登場するワードです。

「飴色」の最後にある鳥のさえずりのような音も、沙知が作った「ツバサ・ラ・リベルテ」を綴理が受け取ったことを考えると、遠くへと飛び立っていく沙知のイメージもあるかもしれません。
「ツバサ・ラ・リベルテ」には "色とりどり 夢を乗せた ツバサが導くままに" という歌詞がありますが、色を混ぜなくても、それぞれの色が集まってもよいという飴色へのアンサーのようにも感じます。
その後綴理が作った「Colorfulness」でも、各々が自分自身の色を持って、いろんな色が共存する世界も美しいというメッセージが込められているのが、その答えを綴理が受け取って自分の中に落とし込んでいるようにも思えます。

この曲で描かれている「置いていかれる」「追いつく」というのは、綴理にとって重要なキーワードだと思います。
6話の「わがまま on the ICE!!」でも、綴理は「この場に置き去りにした」というさやかの言葉を敏感に否定をしていますが、それも「沙知に置いていかれて辛かった自分が、今度はさやかを置き去りにしようとしている」ということに気付かされたからではないかと思っています。
12話のさやかの成長を見て置いていかれそうになって焦ったのも、この置いていかれることへの敏感さが大きいと思っています。
それこそ13話タイトルの「追いついたよ」は12話で置いていかれそうになったさやかに対してはもちろん、去年置いていかれてしまった沙知に追いついて、今度こそきちんと "伝えたい想い" を伝え、相手からの想いも受け取ったことを表しているように思います。
「抱きしめる花びら」の綴理パートでも、"今はまだ君の笑顔に追いつけない僕だけど" という歌詞がありますが、13話の "今は、さちのことすごいと思う。ボクだったら、離れることを選べない。" という言葉に近く、心の距離ではやっと追いつけたが、その心の強さにはまだ追いつけていないという感覚なのかなと思っています。

「今」の飴色


実際の2ndライブのパフォーマンスでは、前述の通り最後にさやかがセンターステージに1人移動する流れでした。
ここから「Runway」に繋がったのは千葉Day.2だけですが、これまでの解釈である、沙知に置いていかれる綴理を思うと、「Runway」はまさにさやかに置いていかれそうになる綴理を象徴した曲でもあるので、綴理は苦しい想いをしているという解釈でパフォーマンスしてもよさそうに思います。
しかし、野中ここなさんも実際に「今回は制服ではなくLink to the FUTUREの衣装で披露した」と言及したように、「Runway」の持つ意味が竜胆祭の頃ではなく、「今」、すなわち2024年4~5月の文脈で構成されていると考えると、竜胆祭での「Runway」のパフォーマンスが「期待していて欲しい」という気持ちを伝えるためのパフォーマンスだとしたら、今のパフォーマンスは「その期待に応えるためここまで成長した姿を見て欲しい」というものになっていたように思います。
その変化を「飴色」にも落とし込むと、今の綴理はさやかに置いていかれる心配をするのではなく、隣に立てていると思えているからこそ、ソロパフォーマンスへ向かうさやかを優しく見守るように送り出しているのではないかな、とライブでは感じました。
あの頃の「飴色」の解釈があるからこそ、今の「飴色」との間に違いを感じられたのも、リアルタイムに変化・成長していく蓮ノ空らしい体験だったなと思います。

最後に、緑と赤を混ぜても茶色で綺麗な色とは思えないという話に戻りたいと思います。
活動記録104期2話において、綴理は "「さやとボク」と、「さやとすず」は違うからね。混ざる色が違えば、出てくる色も違うんだ。綺麗な色に違いは無いよ。心配しないで。" とさやかに言います。
では、「今」の綴理にとって、「さちとボク」はどうなのでしょう。
ただの茶色だと確かにきらめきが足りないかもしれませんが、飴色と言われると少し透明感があって、光に当てると綺麗にきらめきそうなイメージがあります。
「飴色」というタイトルは、綺麗じゃないと思っていた色でも今なら綺麗だと思える、あるいは「さちとボク」でも綺麗な色になれる、なりたかったという願いなのかもしれません。

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